ノーベル平和賞を劉さんに(2) [随想]
ノーベル平和賞を劉さんに(2)
ノーベル平和賞を劉さんに(1)から:
2010年のノーベル平和賞を中国の民主活動家の劉暁波さんが受賞することになったという報道が10月9日の新聞に報道された。劉さんは2008年12月に中国の共産党体制の廃止や三権分立、集会の自由、一党独裁体制の廃止などを求めたいわゆる「08憲章」(中国の作家303人が署名)を書いた中心的人物として、また以前にも天安門事件の活発な指導者などで身柄を拘束されたこともあり、懲役11年で服役中の人物である。中国は平和賞の行方の気配を予め知ってノルウェイを事前に政治的な脅迫をしてはいたが、平和賞の委員会はそれを無視して、劉さんに決めたのである。(以下略)
謹賀新年 2010年元旦 [随想]
明けましておめでとうございます
プラハの屋根
今年がいい年でありますよう、皆さまのご健勝を祈り上げます。私は年並に無事に過ごしております。
卒業生たちが「サロン・ド・〇〇」と称して、1ヶ月に1回くらい自宅で会合を開いて、何人か集まってくれます。時代の波を感じつつ、人生を楽しんでおります。
今年もよろしくお願いいたします。
2010年元旦
Kenzi
謹賀新年 [随想]
明けましておめでとうございます
今年がよい一年でありますよう、皆様のご健康とご多幸を祈り上げます。
私は満85歳になりました。「歳には勝てない」と申しますが、歳とともに身体的には辛いことも増えて参ります。しかし多くの素晴らしい卒業生たちが幸い出藍の誉れで、大変な活躍をしているのを見ているのは私の大きな喜びですし、折を見て彼らの研究室のゼミに出させて貰ったり、また幾つかの財団などのお手伝いをしたりしております。先ずは、アンティエイジングに、頑張っています。
今度私の過去の写真の中から気ままに選び集めた「プライベイトな写真集」を作りました。それを見るにつけても家族をはじめ、恩師、仲間、弟子たち全て素晴らしい人達に恵まれて来たこと、感謝あるのみです。
本当に有り難うございました。 今年もよろしくお願いいたします。
2009年 元旦
Kenzi
寺田寅彦と田丸卓郎 (3) [読物]
寺田寅彦と田丸卓郎 (3)
寅彦は後に東京帝大理科大学の物理学に進学した際、奇しくも,その時,東大助教授に任ぜられていた田丸に直接「物理学」の指導を受け、世界的な物理学者として大成して行くのであるが、田丸の物理学の講義について、次のように「記憶」している。
『高等学校における田丸先生の物理も実に理想的な名講義であったと思う。後に理科大学物理学科の科目として教わったものが、「物理学」だとすると、その基礎になるべき「物理そのもの」とでも言ったようなものを、高等学校在学中に田丸先生からみっしり教わったというような気がする。この時に教わったものが、今日に至るまで実に頭にしみこみ実によく役に立ち、そうして何時でも自分の中に活きて働いているのを感じる。高等学校の物理は実に大事だと思う。』
このような寅彦の追憶を読むと、田丸先生は本当に理想的な教師だったと思う。また、寅彦のような優秀な教え子に、このように追憶される田丸自身も教師冥利に尽きるだろう。
(田丸卓郎は田丸節郎の兄に当たる。つまり私、kenziの伯父に当たる)
(2008年10月13日)
3回の連載物お読み頂きありがとうございました。しばらくお休みして、また、アップしたいと思います。よろしくお願いします。
連載は終り
寺田寅彦と田丸卓郎 (2) [読物]
寺田寅彦と田丸卓郎 (2)
この部分を読んだだけで、つまり、田丸先生がどのような試験問題を出したかを垣間見ただけで、田丸先生はいい先生だった。立派な先生だったんだなあ、と私は思う。田丸は、公式を暗記していればよいような問題を出さずに、よく考えなければ出来ない問題を出したのである。「暗記問題」と比べると、このような問題は作るのも、採点するのも大変なのであるが、暗記でなく考えることの重要性を主張するならば「吟味」が必要な「少しねつい種類の問題」出す必要があるのだ。寅彦が田丸に初めて習ったのは数学であったが、二年の時に物理、三年の時に力学を習った。これらの講義を通して、寅彦は田丸の「人物」に感銘し、「物理学」に魅力感じ、興味を深めて行くのである。田丸は「真面目で、正直で、親切で、それで頭が非常によくて講義は明快」な理想的教師だった。「頭のよい」寅彦が感銘しないはずがない。寅彦は、田丸に教わった数学について。次のように書いている。
『先生に三角を教わったために、初めて数学が面白いものだということが少しばかり分かって来た。中学で教わった数学は、三角でも代数でも、一体何処が面白いのかがちっとも分からなかったが、田丸先生に教わってみると中学で習ったものとはまるで違ったもののように思われてきた。先生に言わせると、数学ほど簡単明瞭なものはなくて、誰でも正直に正当にやりさえすれば、必ず出来るに決まっているものだというのである。』
・・・ 次回に続く
これは連載
寺田寅彦と田丸卓郎 (1) [読物]
今日は私の誕生日です。ブロムを半年以上もお休みしました。ホームページの原稿がたまったわけではありませんが、少しづつ、また、アップしたいと思います。よろしくお願いいたします。
寺田寅彦と田丸卓郎 (1)
「漱石と寅彦」 志村史夫著(牧野出版)(2008年)から写し書きしたものです。
寅彦は、五高(熊本高等学校)において、「生涯の師」となる物理学者の田丸卓郎(1872-1932)と「運命的な出会い」をすることになる。一般には、漱石の影響力ほどにはよく知られていない。しかし、後の寅彦の主たる「本職」を物理学者とするならば、元々、工科志望の寅彦を物理学志望に変えさせた点において、田丸の影響力は漱石のそれよりも大きかったといわねばならない。「寺田物理学」の「芯」たる物理学は田丸との五高における「運命的な出会い」なくしてはあり得なかったのである。
田丸卓郎は明治五(1872)年生まれだから、漱石より五歳下、寅彦より六歳上である。田丸は東京帝大理科大学物理学科を明治二十八(1895)年に卒業し、五高の教授になったのは明治二十九年の八月、つまり寅彦が入学する一ヶ月前のことだった。寅彦が五高に入学して直ぐに習った数学の「三角法(術)」の先生が、若き日の田丸卓郎だった。寅彦はその時のことを「田丸先生の追憶」の中に次のように書き残している。
『一番最初に試験をしたときの問題が、別に難しいはずはなかったのであるが、中学の三角の問題のような、公式へはめれば直ぐ出来る種類のものではなくて、「吟味」といったような少しねつい種類の問題であったので、みんなすっかり面食らって、綺麗に失敗してしまって、ほとんど誰も満足にできたものはなかった。』 ・・・ 次回に続く
これは連載
注: 田丸卓郎は父の兄です。
暫くお休み [休暇]
ホームページの記事を多くの方々に読んで頂きたいとブロムを立ち上げました。多くの皆様にお越し頂きありがとうございました。まだ、ホームページには記事はありますが、専門的なもの、プライベートなものも多く、ブロム向きかな、と思います。500記事を区切りに、暫くお休みして、また、記事がたまりましたら、再開させて頂きたいと思います。
では、また。
ノーベル化学賞の基本は [随想]
ノーベル化学賞の基本は
2) 第100回触媒討論会懇親会での挨拶
3)第百回触媒討論会懇親会での乾杯の音頭
携帯コンピュータの時代になると
と掲載してきたが、その後、2007年度のノーベル化学賞が発表されたので、1)に加えて、「ノーベル化学賞の基本は」という一文を加えて終りとしたい。
2007年のノーベル化学賞はドイツのハーバー研究所の所長だったG.Ertl さんに決まった。私の40年余りの長い親しい友人であるだけに喜ばしい。しかし、彼が何をしてノーベル賞を頂いたかと言えば、触媒反応の進む現場を直接観察することであって正に私が提唱した新しい触媒反応機構の解明方法そのものを、時代と共に発展した新しい武器を使ったことに他ならない。はっきり言えば、その研究の基本は正に丁度半世紀前に私が提唱し、Taylor 先生や堀内先生に高く評価して頂いた研究方法自身に他ならない。
偶然、ちょうど500記事目にこの記事を掲載することになった。
第百回触媒討論会懇親会での乾杯の音頭(5) [随想]
第百回触媒討論会懇親会での乾杯の音頭(5)
携帯 コンピュータの時代になると
一言で言えばクリエイテイブな人材養成の時代になるわけです。例えば殊に大学院時代でもこれまでよりなお一段と頭を使って独創的な研究の競争の時代になってまいります。つまり、智慧の時代になってくるわけです。 院生に{練習問題のようなイージイなテーマを与える教官は要らなくなり、氾濫する情報の数を増やすだけでは評価されないで質を高める時代が来るのではないでしょうか。今度のような討論会でも質を高めるようもっともっと厳しい議論がなされて来るではないでしょうか。 皆さん、大いに頑張って下さい。
折角の素晴らしいご馳走を前に何か美味しくなくさせるようなことを申しましたが、兎に角、これから暫くの間、大いに懇親の実を挙げ、楽しんでくださいますようお願いもうしあげます。では乾杯しましょう。 乾杯!
連載は終り